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忌宮神社~天下の奇祭「数方庭祭」~

目次

忌宮神社の成り立ち

忌宮神社は、第14代仲哀天皇が九州の熊襲(くまそ)を平定するために、この地に皇居豊浦宮を興して7年間政(まつりごと)を行った地です。その後、筑紫の香椎で崩御した後、御神霊を祭ったのが始まりとなりました。

その後、聖武天皇の時代に神功皇后を奉斎(ほうさい)して「忌宮」と称するようになりました。「忌」と「斎」は同義語で、特に清浄(清らかでけがれのないこと)にして神霊を奉斎(神仏をつつしんで祀ること)する意味とのことです。

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現在では「忌」とは「忌み嫌う」など、悪い意味で使う言葉の印象が強いので、不思議な名前の神社だなと思っていましたが、「斎」という言葉と同義であり、本来は違った意味で利用されていたようですね。

正面参道と数方庭祭

南側の参道も商店街に面しており立派ですが、正面参道は西側からとなっています。奥の広場に何やら大きな木や竹がたくさん立っています。

近づいてみると、大きな木とロープがぐるりと円を描くように敷地を囲んでいます。中には長い長い竹が立て掛けてあります。

数方庭祭の準備が行われているようです。話しには聞いていましたが、準備の段階でもかなりの迫力です。ん…、何やら中心で竹を担いでる人がいますが…。

子供です!竹のサイズは小さいですが、小学生ぐらいの女の子?が父親らしき人から指導を受けています。身長の何倍もある長い竹を見事に担いでいます。本番は見に行けないけど、良いものを見せてもらいました。

近くでみると天まで届くような長さです!

数方庭祭の由来と鬼石

熊襲(くまそ)討伐時、朝鮮半島の新羅国(しらぎ)の「塵輪(じんりん)」が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せて来ました。苦戦を強いられたものの、見事「塵輪」を討ち果たし敵軍を追い払いました。皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら「塵輪」の屍のまわりを踊りまわったのが由来と言われています。

「塵輪」の首が鬼のようであったことから、その首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいます。少し怖い話しでもありますが、「文武」の神として祀られるように、戦いの神様として妙に納得する由来でもあるなぁと思いました。

その他施設

神門。シンプルな色合いですが渋みがあり立派な門です。

拝殿。こちらもシンプルながら渋みがあります。

荒熊稲荷神社。長府藩11代藩主毛利元義公が江戸参勤交代の帰途、京都の伏見稲荷大社にて分霊をしたとのことです。しかし、いつも不思議に思うのですが、どこの神社にいっても必ずお稲荷様が祀られているのは何故でしょうか?

八坂神社。明治の神社合祀により多くの神社が合祀されています。

相撲資料館。山口県出身の放駒親方(元大関・魁傑)との縁から、荒熊稲荷神社改築10周年を記念して開館したとのことです。

商店街からの参道

南側からは長府の商店街通りを抜けて参道が続きます。

シャッターが下りた店も多いですが、和菓子の名店や飲食店など魅力的なお店も沢山あります。

商店街を少し南に下ると大きな駐車場もあります。

「維新発祥の地」として名乗るだけあり、長府は様々な歴史的史跡が点在しています。

 

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